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2011年11月28日

メガネ

いつもは使わないけど、旅行とお出掛け用には少し強めに作った近視用メガネを持っている。

先日、その強いメガネを掛けたまま、家で縫物をしようとしたら、針に糸が通らない!
うわ。いつの間にこんな老眼になってしまったんだろう、と落ち込んで、ふとメガネを外すと・・・見えるんですけど。メガネを外した方がよく見える、というのは新鮮な状況で、老眼になってきたことに変わりはないのに、なんだか得をした気持ちになってしまいました(笑)。

そういえばメガネを作る時に、メガネ屋さんに何に使うのか聞かれて、旅行用に遠くが良く見えるやつ、とお願いしたんだった。遠くが良く見えると近くが良く見えないものなのか。人生の半分以上メガネを掛けているのに、知らないこともあるものだ(爆)

三笠山と饅頭神社

先日桃山の話を書いたけど、今回の奈良旅行では和菓子な場所がたくさんありました。


まずはやっぱり三笠山。・・・やっぱりどら焼きには見えませんよ。ていうかそもそも「山」には見えないような(笑)。これは「丘」ではないですかね。でも地図を見るとこれが若草山だと書いてある。山焼きの跡があるから確かにこれが若草山=三笠山なんだと思う。標高342mには見えません。海抜は342mなんだろうけど、地面の高さが300mくらいあるんじゃないか・・・なだらかな「山」ではある。
次はホテルの近所にあった饅頭神社、じゃなくて林神社。塩瀬饅頭の元祖である林浄因さんという方をお祀りしたものだそうで、鏡餅のようなお饅頭が供えられている。お菓子業界の方がお布施しているようでした。地図には「漢国神社」と書いてあってその一画に小さく間借りしているんだけど、道路沿いにちゃっかり「饅頭の祖神 林神社」と標識が出ていて饅頭!と気が付いたのだった。
 奈良はお茶が今一つで、だからお菓子も今一つだろうと思う。決してまずくはないんだけど、やっぱり京都と較べちゃうと分が悪いよね。でもシンプルな草餅を買って食べたら普通においしかったよ。

金平糖

ポルトガル語のconfeito(コンフェイト)由来と言われる金平糖。

極小サイズのを買ったらクマが大きく見える(笑)
こんなに小さいと角もいい加減ですが、普通の金平糖の角はだいたい同じような数になっていて、なんと数式であらわされるのだそうだ。(表してどうするんだ、という気が)

昔は引き出物とかにお砂糖が用いられていて(たぶん高価なものという印象がまだ残っていたんだろう)、缶入りの単なる白砂糖から、角砂糖やパックシュガーが用いられるようになった。瓶入りの金平糖が良くギフトコーナーにあったのも、同じノリだったのだと思う。私もいろんな色のを持っていたなぁ。何年も放っておいても問題ないのが金平糖のすごいところ。

写真の極小金平糖は、年代物ではなく撮影のために購入したのだったが、うっかり自分の好きな色を買ったら紫陽花みたいになってしまい、ちっとも季節感が出ないのだった・・・

2011年11月20日

机の鍵

職場の机には鍵が付いているんだけど、貴重品らしきものを入れない私は普段鍵をかけていない。

でも先日客先にPCを持っていくことになり、前夜にノートPCを借りて珍しく鍵を掛けた。
そして翌日、鍵を開けてPCを取り出し、パタパタと出掛けようとして、鍵を挿したままなのに気が付いた。何も貴重品はないけど、挿したままはまずいよね、と抜こうとしたらうまく抜けない。気がせいていたこともあって、ガチャガチャ回した挙句、やっと抜けて元通り引き出しに放り込んで出掛けた、筈だった。

客先から無事に帰ってきてPCを返却して、さて電卓を出そうと引き出しを開けようとしたら・・・鍵が掛かってる!んー?鍵閉めたつもりはないんだけど、ガチャガチャした時に間違って閉めちゃったのかな?それはともかく、鍵が閉まってるということは、引き出しじゃないどこかに鍵をしまったということで・・・どこに置いたんだろう??
机の上にもないし、カバンの中にもない。いったいどうやって失くしたのかサッパリ見当が付かないのだが、ないものはない。合鍵もないので、鍵屋さんを呼ばないといけないらしい。うーん。困ったな。

家に帰って考えた。おかしいな。引き出しに放り込んだ筈なのに・・・もしかして、鍵が掛かっているわけじゃなくて、単に引き出しが開きにくいだけ??翌朝、引き出しをガタガタ引っ張ってみると・・・開いた!そして鍵はちゃんと引き出しの中にありました。なんだよ立てつけが悪いだけか、と思ったのだった。暫くその状態で使っていたのだが、引き出しを閉めるたびに開きにくくなる。なんでかな、今までこんなことなかったのに。何が引っ掛かってるんだろう?とよく調べてみると・・・

鍵が掛かってた・・・

要は、鍵を掛けた状態でも、ガタガタ引っ張ると開くのだった。びっくりだ。この机に貴重品は入れないことにしよう、と固く心に誓う私でした。

おすすめは東大寺

興福寺は藤原氏のお寺で、春日大社は藤原氏の神社。奈良公園にあるもう一つの目玉、東大寺は藤原氏の何?と思ってしまうが(笑)、ご存知の方は多いと思うけど、東大寺は天皇(聖武天皇)が建てたお寺。「東の大きなお寺」という判りやすいネーミングは、時の都であった平城京からのロケーション。東があれば西もあり、大和西大寺が西の大きなお寺、になります。

東大寺といえばやっぱり大仏様ということになるのだけど、修学旅行の度に見たと思うし、今回も大仏殿は見学してきたけど・・・ううむ。もっと大きくなかったっけ?鎌倉の大仏様の方が大きくない?
実際には奈良の方が大きいのだが・・・なぜか私には鎌倉の方が大きい気がした。お部屋の中にいるからかね?ま、しかし大きいことは大きい。大きいけど・・・うまく言えないのだが何だか遠い感じ。大仏様が出来たのは752年。伽藍が出来たのは789年とあるから、平安京に移るほんの少し前。せっかくこんな大きな仏様を作ったのに何で置いて行ったんだろう(でかすぎたからかな・・・)

しかし置いて行ってもらったおかげで、東大寺は独自の厳しい修行を行うお寺となったらしく。お水取りが有名だよね。

で、私のお勧めは、お水取りのある二月堂。大仏殿よりもだいぶ山の方へ歩かないとなので、春日大社同様パスする人が多いのではないかと思うが、建物自体もおしゃれだし、何より二月堂からの眺めは絶景なので、絶対行くべきと思う。

・・・判りにくいけど、写真下(手前)は二月堂の建物で、左の真ん中くらいにある三角屋根が大仏殿。遠く市内が見下ろせます。二月堂の建物は舞台造というのだそうで、そういえば清水寺にどこか似ているかも。バルコニー(違うって)からの眺めが気持ちいいです。
お水取りの時には、松明を持ってここを走り回るんだなぁ。すごいなぁ。どうして燃えないのかなぁ・・・

ちなみに東大寺では今秋「東大寺ミュージアム」なるものがオープンしました。私が行ったのはその前だったんだけど、ちょうど三月堂の何か(梱包されていて判らなかった。冷蔵庫大のもの)を移送するところに行き合わせた。
オレンジ色のトラック上の、置く位置が決まっているらしく、少しずつ上げては下げ、上げては下げ・・・研究者らしい人達が遠巻きに心配そうに見ていた。運ぶのって大変なんだなぁと思ったのだった。

そんなわけで三月堂は中に入れなかった(ちょっと覗いたけど何もなさそうだった)。二月、三月とあって四月堂もあるのだが、五月堂から先はないようです。とにかく、春日大社同様、緑が濃いのが気持ちよかった。

桃山

月餅の回に書いたけど、私にとって「中村屋の和菓子」と言ったら、月餅か桃山。子供の頃はどっちも他のお店では見掛けなかった・・・ような気がする。今では山崎パンがコンビニとかでも売ってますね。買うほど好きかと言われると自信がないが、ほんわり黄身餡が子供好みの味。

 桃山っていうのは、外側の生地のことを言うのだそうだ。だから中身が黄身餡でなくてもいいのかもね。
この黄色い桃山生地は、白餡(外側もアンコ!)と卵黄と粉(寒梅粉とGoogleでは出てくるが、中村屋はみじん粉と書いてある)でできている。型押しして焼くのがお約束。
そうしてその「型」に五三桐の焼き型が使われているので桐→豊臣家→伏見桃山→桃山というネーミングらしい。なぜ桐なのかは不明。

ふーん・・・でも中村屋の桃山には桐付いてませんよ。これは菊じゃないかね?山崎の桃山には桜(たぶん)が付いていた。ほんとに桐付いているのかなぁ?と思うのだが、関西方面では常識なのかもしれない。関西人は関東人に比べて豊臣家への思い入れが深いしな。関西の和菓子屋には当たり前に桐紋があるけど、東京にはなくて、なんでもいいよね植物ならということになってしまったのかも。

夏休みに奈良に行ったとき、京都からJR奈良線に乗ったので、途中「桃山駅」がありました。安土桃山ってここかーと思った。でもwikiによると、当時は「伏見」と呼んでいて(今でも伏見ともいうけど)、「桃山」になったのは、伏見城跡地に桃が植えられたからとのこと。

だとしたら「安土桃山時代」といういい方は時代考証上問題があるのではないか。「安土伏見時代」・・・言いにくいし何だか地味だな。桃山の方が華やかで似合ってはいる。城跡が桃畑になったのはある意味諸行無常ってやつだが、同じ畑でも何だか明るくていいね。

2011年11月13日

栗蒸し羊羹

羊羹はもともと「羊の熱いスープの冷めたもの(煮こごり)を模した精進料理だった」という話を以前書いた。ゼラチン質の煮こごりに似せるために寒天を使ったのよね、と思いきや、wikiをよく読むと、「いずれにしても初期の羊羹は、小豆を小麦粉または葛粉と混ぜて作る蒸し羊羹であった。」と書いてあるではないの。えええっ。蒸し羊羹は煮こごりには見えませんけど・・・

練羊羹の作り方は知らないけど蒸し羊羹なら判る(作ったことはないけど。AJ母が作るのを手伝ったことならある)。餡子に粉と水を加えて蒸せばいいんだよね。
私はてっきり、練羊羹が嫡流で、蒸し羊羹はお手軽におうちで作るための亜流だと思ってたんだけど、wikiにはこんなことも書いてある。「羊羹のプラスチックや紙の包装が竹の皮の印刷であるのは、この蒸し羊羹の伝統によるとされる。」
確かに~!練羊羹は練ったやつを型に入れたら冷やすだけだから、竹の皮が出てくる場所がないよ。

蒸羊羹さん、元祖だとは知らずに後回しにしてごめんね。黒光りする練羊羹の方がお持たせには格好いいけど、素朴な蒸し羊羹の方が実は好きだよー。

鹿が来た春日大社

奈良公園に鹿がいるのは、鹿島神宮から春日大社のために鹿が来たからだ(ということになっている)。では春日大社は何のために建ったかというと、公式サイトには「平城京の守護と国民の繁栄を祈願するために創建された」と書いてある。そうだったらこれこそ平城京が遷都された時に京都に付いていくべきだと思う。

春日大社の神紋は下がり藤です。ということはすぐ想像がつくように、藤原氏の神社(氏神)なんですね。藤原氏はお寺(興福寺)を建てた後に、神社も建てることにしたんだな。明治時代に神仏分離令が出るまで、神も仏も一緒くただったせいなんだろうけど、廃仏毀釈運動の中、興福寺も東大寺も土地を手放さずに済んだ(手放したかもだけど)のは、春日大社のおかげのような気がする。仏像の類がないためか交通の便が一番悪いせいか、今一つ影が薄い春日大社ですが、緑が濃くて気持ちがいいです。


いかにも神社、て感じの南門。
そんなに古いものには見えませんけど、14世紀の再建だそうで・・・朱塗りだけ繰り返しているのかな。

下の写真は門を入ったところ。南門同様の鮮やかな朱塗りの建物が殆どなんだけど、地味な建物もあってこれはこれで神社っぽい。

朝早く行ったので、あちこちでお掃除の最中だった。水を撒いていた巫女さんは、頭に下がり藤を付けていて大層カワイイ。
というか、巫女さんが藤を付けているのを見てなんてカワイイんだろう、ウチの近所の神社でもああすればいいのに、とまず感動して、その後であちこちに藤のマークが付いているのに気付いた。前日興福寺に行ったので、藤=藤原氏だなとピンと来たのだった。


神社のがらーんとした空間と、周りの森というか山というか鬱蒼とした気配との対比がとても神秘的で神々しくて、何だか神社っていいなぁ、と素直に思ってしまう場所でした。どこから行ってもちょっと歩くんだけど行く価値はあるので、奈良公園に行ったら東大寺と興福寺で終わらずに、鹿のパトロン春日大社にも是非寄るように。

2011年11月6日

阿修羅のいる興福寺

奈良公園の中には、東大寺、春日大社、興福寺と3つの大きな寺社がありますが(小さいのはすごくたくさんある)、イメージとしてはたぶん大仏のいる東大寺が奈良公園の顔なんじゃないかね。でも五重塔は興福寺なんだよ。

起源が一番古いのも、実は興福寺。奈良時代の建物は残ってないんだけど、奈良時代の仏像の類はたくさんある。一番有名なのは、当然、阿修羅像!だよね。

興福寺に行ってみて、あそうか、と思ったのは、阿修羅というのは仏様御一行様の中では身分が低いのね。ご本尊は釈迦如来像なので、お付きの一人にすぎない阿修羅像は、他のお付きの人達(人じゃないか)と一緒に並んでいるのだった。説明も特別扱いなし。
でも殆どの見物客の興味は阿修羅像にあり。たくさん並んだお付きの人々(だから人じゃないって)の阿修羅像の前にだけ人だかりができている。気の毒なご本尊。そして展示の仕方は「単なるお付き」だけど、お土産屋は阿修羅グッズだらけ。お釈迦様や十大弟子の皆様はさびしくないだろうか。ま、そんな煩悩はとっくにお持ちでないよね。
一番感心したのは、興福寺公認のiPhoneアプリが出ていたこと。阿修羅像を360度眺められるアプリ・・・好きな人は好きなんだろうなぁ。作ったのは興福寺ではなく、JR東海の関係会社とのこと。お代は阿修羅像が入っている国宝館の入場料と同じ600円。ま、買ってさえしまえば毎日何度でもどの角度からでも阿修羅像を眺められるからずっとお得なのかもしれないけど・・・ 興味ある人は、AppStoreにてどうぞ。

興福寺は藤原氏のお寺で、藤原不比等が飛鳥からここに連れてきたのが始まりだそうだ。平城京が建った頃のこと。だとしたら何で平安京が建った時に京都に連れて行かなかったのかね?平安時代の藤原氏は嫡流じゃなかったのかな?と思いきや、そういうことでもないみたい。平安時代でも興福寺は手厚く保護されたとwikiに書いてある。興福寺を建ててからの藤原氏繁栄がすごかったために、逆に動かせなくなったのかもね。時の権力者の後ろ盾を得て、東大寺や春日大社を従えていたようだ。今も特に東大寺とは張り合っているように見えるけどね(笑)。

亥の子餅

松丸本舗シリーズの続きで、源氏物語を読んでいる最中。葵の段に、光源氏が「亥の子餅」をもらって、それを紫の上に届けるシーンが出てくる。解説によると、新婚三日目に夫婦でお餅を食べる習慣があったので、それをもらった亥の子餅で済ませようとしたらしい・・・新婚って言っても、紫の上(まだ若紫というべきかな)は合意の上と言えない状況だし、「夫婦で食べる」というなら一緒に食べないと意味ないじゃないかね。
とにかく「亥の子餅」。同じく解説には、10月の最初の亥の日に食べる、と書いてある。旧暦10月の最初の亥の日・・・11/4(金)ではありませんか。もしかして京都系和菓子屋で売ってたりする?と半信半疑でデパートに行ってみたら・・・売ってる売ってる!

鶴屋吉信の亥の子餅。黒いポチポチは胡麻で中に餡子入り。とても美味しい。すごく美味しくて、こんな美味しいものは平安時代にあったはずがないだろ、と確信してしまう(笑)

wikiによると、猪に似せた形や色が付いていればよく、決まった作り方はないのだそうです。鶴屋吉信の亥の子餅も、「猪のすがたをかたどった」とホームページに書いてある。私にはイノシシには見えませんけど。

Googleしていると、「亥の子」=「猪の子供」に似せたお菓子だと書いているサイトがいくつかありますが、それは間違いですね。wikiに書いてあるように、「亥の子」とは、「亥の月(10月)の亥の日」を意味するのです。だいたい猪の子どもをかたどったんなら、縞々がないとおかしいよね、気づけよ。