「外郎」という名前が、お薬及びお菓子を伝えた中国人の役職名だった、という話はお菓子の外郎の所にも書いた。
wikiによると、その中国人は陳宋敬さんという人で、外郎というのは「外」が示す通り、外交官のことなのだそうだ。元から明に国が変わってしまい、外交官のコネを活かして博多に亡命。亡命先でしょんぼりと人生を終えた、のではなく、日明貿易に携わった。
外交官だった位だから、中国語は完璧だし、輸入するものの正しい産地や値段にも詳しかったんだろう。まがい物を高価でつかまされることが多かった日本人バイヤーにとって、頼りになる顧問だったに違いない。本人も自分の価値をしっかり理解していたのだろう、その知識を子供に引き継いだのだ。
で、二代目である陳宋奇さんも、「外郎さん」として頼りにされることになる。その評判は博多から都にも届き、室町幕府から是非京都に来てください!と招聘される。その子孫も「外郎さん」=「外郎家」と呼ばれるようになる。
貿易全体に関わっていたのだろうけれど、生薬(漢方薬の原料)は、本物を知らないと見分けるのが難しいし、適正な価格で買うのも難しい。その辺の雑草を「超高級品の朝鮮人参!」とか売りつけられても、本物じゃないから効かなかったのか、医者の診たてが悪いのか、判断に困るもんね。美術品なら、偽物でも安物でも、自分がいいと思って納得できる価格で買えばいいやと割り切ることも出来るけど、生薬ではそうはいかない。だから、生薬の輸入+お薬に調合して売る、を室町幕府バックアップの元、外郎家が独占的に行って好評を博した、のは想像に難くない。
が、問題は、なんで小田原?というところなのだ。
wikiにはムニャムニャと書いてあるけど、小田原外郎家と京都外郎家は血が繋がっているか不明らしい。小田原外郎家の元祖は、京都外郎家の家系図には出てこないってことだろう。実子を勘当したのかもしれないけど、婚外子とか丁稚とかが企業秘密を持って出奔したのかもしれない。
とにかく秘伝のお薬とお菓子の作り方等などを持参して、落ち着いた先が北条早雲の元だったわけだ。時は乱世の幕開け応仁の乱、室町幕府の崩壊も近い。
京都外郎家は、おそらく室町幕府と近過ぎたために、だんだん存在が小さくなっていく。それに比べて小田原外郎家は、北条家(後北条家)が五代で終わっちゃったあとも、豊臣家や徳川家に用いられ、元気に生き延びた。
しかしそれだけだったら、「権力者の御用達ブランド」で終わっていたよね。小田原外郎のエライところは、外郎薬って言ったら小田原!と一般庶民まで浸透させたことだ。さてどうやって?続きは次回。
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