広島市は藩でいうと安芸。「安芸の宮島」として知ってはいても、あまり裕福なイメージはないと思うのね(失礼な)。
戦国武将でいうと広島=毛利元就で、広島城を最初に建てたのも毛利氏なんだけど、しかし毛利氏の本拠はもっと山の方。関ヶ原の戦いで毛利氏から福島正則に持ち主が変わって、さらに浅野氏(赤穂浪士の浅野氏の本家)に移ったのだそうです。で、、、なんとなくぱっとしないまま江戸時代を終える(だから失礼だってば)
そんな広島市が脚光を浴びるのは、明治になってから、軍都としてなのですね。
江田島や呉のイメージが強かった私は、てっきり広島港が軍港として開かれて、そこから軍都としての歩みが始まったんだろう、と思ってたんだけど、実際に広島港(宇品港)に行ってみると、周りが平たすぎる。正しい港町というものは、神戸も横浜も函館も横須賀も、坂道を下ったところにあるもので、そうでないと大きい船が入らないじゃないか、と思った。
実際、広島港はもともと遠浅の使いにくい港で、千田貞暁という政治家さんが巨費を(私費も)投じて大きい港として作ったのだそうです(wiki)。
でも、広島港が軍港として使われるのは戦争が始まってからのこと。軍都広島の始まりは海軍ではなく、明治初期に陸軍の師団が置かれたところから始まった、と考えてよさそう。wikiによると、明治初めの混乱期、鎮台はまず治安に不安のあった(たぶん)石巻と小倉に置かれた。明治4年に東京、大阪、東北(石巻→仙台)、鎮西(小倉→熊本)の4か所になった。
この時点で広島は、鎮西鎮台の第一分営=中国地方の代表になった。更に2年後には九州から独立した「広島鎮台」として中国+四国地方を管轄することになっていく。宇品港ができるのも、江田島海軍兵学校や呉港が開かれるのもそれより後で、陸軍の町があっての海軍の町、であるらしい。
広島がなぜ中国地方の代表都市になったのかはわかった。が、なんで広島だったのかはわからないよう。港も鉄道も出来る前。周辺に較べて特に便利そうでも裕福そうでもなかったと思う。九州と関西の真ん中なら福山でいいと思うし、平野の広さなら岡山、船便の便利さなら松山でも良かったと思う。 なんで広島だったんだろう・・・
軍都として始まった広島は海軍を得て膨張し、全国でも突出した軍都となっていく。被爆都市となったのもその延長線上にある、と言うことは容易いけど、好きで軍都になったわけじゃないんだし。誰が広島を軍都にしたのか。誰でもいいけど理由は知りたいよう・・・
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