弘法大師というのは、空海さまが亡くなって100年近く経ってから、時の天皇からもらった名前。大師=功労のあった立派なお坊さん。だから他にも大師はいる。同時代のライバル、最澄は伝教大師というのをもらっている。でも「お大師様」ていうと、大抵は弘法大師のことだね。それだけ人気者なのだ。
本名は佐伯眞魚(まお)。子供のころからお坊さんになると決まっていたので、本名というより幼名なのかな。かわいくていい名前だよね。昨今のキラキラネームに使えそう。
その後、教海、如空、と言う名前を経て、22歳の時に空海と言う名前に。
空海ってホントにいい名前だと思う。空海様がこんなに有名じゃなければ、「くみ」とか「そらみ」とか「くうま」とか言う子供が結構いたのではないか。お酒の名前、お店、ファッションブランド、バンド名、何につけてもカッコいい名前だと思う。単純に「空と海」でも素敵だが、仏教らしく「空(くう)の海」と読んでも素敵。最澄と言う名前が、いかにも出来のいいエリートで嫌味な響きがあるのと好対照。
若くしてお寺持ちの最澄に対して、空海は若い頃は下積みというか修行の日々。大日経に出会って、これだ!と思うものの、当時の日本には先達がいなくて遣唐使に立候補。唐に着いてから向こうの役人にも恵果先生にも認められて出世の階段を上り始めるのだった。
なんで唐で突然盛大に認められたのか?いろいろあるんだろうけど、結局字が上手だったからでは?
直筆だという聾瞽指帰(ろうこしいき:読めないよ!)を霊宝館で見た。字の巧拙はわからないけど、やたらに難しい字を迷わずサラサラ書いている感じはする。唐に行く随分前の作。
本も紙も今よりうんと貴重だった時代、難しい字をサラサラ書ける人、はそれだけで十分尊敬に値しただろう。自分の考えや主張、疑問点をサラサラと難しい字で書ける空海様は、そりゃぁ、狭い日本では煙たがられても、唐では、日本人なのにスゴイ!と受け入れられたんだろう。
恵果先生は空海様に全てを教えて遍照金剛と言う名前をくれて亡くなってしまう。すると唐にもいづらいわけで日本に帰ってくる。
日本はまだ平安時代が始まったばかり。東大寺を建てても、唐招提寺を建てても、いまいち世の中は収まらなかった。建国200年を過ぎて繁栄を極めていた唐で流行りの宗教がいい、東大寺の奈良仏教じゃなくて、と思う気持ちは判る。そこに唐の高僧から認められた空海様がたくさんのお土産を持って帰国。まぁすごい、是非その力で朝廷を盛り上げてください、となるわけだ。
今昔物語では、巻11の9に空海、10に最澄が宋(正しくは唐)に行って仏教を持ってくる話、25に高野山、26に比叡山を開く話が並んで書いてあるんだけど、空海様については他に巻14の40で、「弘法大師、修円僧都と挑める話」がある。
天皇の護持僧だった修円僧都(興福寺=奈良仏教の僧侶)が念力で栗を煮てみせると、同じく護持僧の空海が邪魔して煮えなくさせてしまう。二人は犬猿の仲となって技の掛け合い。最後に空海は自分が死んだと噂を流して、修円がホッとしたところに技をかけて殺してしまう・・・おいおい。
僧侶というより陰陽師みたい。仏教ってそういうもの?と言う話はまた次回。
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